ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」における意味生成の機序

2023年5月19日版

論理哲学論考において写像理論はその意味理論の中核をなすが、一見すると写像理論は単純な言語観の表明であるように思われる。つまり、世界の側に存在する事実を言語が命題として写しとり、事実の構成要素一つ一つに命題の構成要素が対応している、というわけだ。さらにこのような対応関係はあらかじめ措定されており、それがどのように可能になるかについてなんらの説明もないように見える。さらに言えば、後年の例えば青色本などの記述を思い起こして、命題が私秘的な媒体(精神)に存在する謎めいた存在であり、それがこのような写像関係を可能にしているのだ、と読んでしまいたくなるかもしれない。本論ではこのような読みに批判を試みたい。論考には写像を可能とする条件についての緻密な議論が存在する。論考のさまざまな主張(語り得るものと示されうるものの区別、論理形式に関する種々の主張など)はこの意味生成の可能性の条件から主張されているものである。この意味生成の可能性の条件に照らし合わせると、写像理論は決して世界と言語との単純な対応関係を前提とするものではないことがわかる。むしろ、意味生成を行う主体が存在し、それが一定のアスペクトのもとで世界の像を構成することによっているのである。しかし論考はその主体が誰であるか、必ずしも明示的には語っていない。このことが、従来あたかも写像形式があらかじめ措定されているかのように読まれてきた原因のように思われる。しかし主体が明示的に語られないのは、論考がもっとも一般的な形式である論理形式を語ろうとするのに特定の主体を主題化することは好ましくなかったからであろう。そして意味を生成する主体とその場については、後期哲学で問題にされているように思われる。 本論では「形式・形式列・内的関係・表情」の概念から出発し、論考の形而上学と写像理論を根拠づけようと試みる。というのも写像が可能であるのは2.17節にあるように現実と像が「写像形式」を共有することによってだからである。写像形式は単に世界の中にある形式を写し取ったものではない。むしろ意味主体が世界の中にあるパターンを読み込むことによって、世界の形式とその像(命題)がもつ形式、そしてその間に成り立つ写像関係が同時に与えられるのである。

論考をどのように読むのか

論考はどのように読まれるべきか、これはいうまでもなく簡単な問いではない。この問いを詳細に議論する力量は著者にはないが、本論の立場を簡単に述べておく。まず本論では論考という書物自体の読解を目標とする。したがって、たとえウィトゲンシュタイン本人が述べたことであっても、それが論考のテクストの外側である場合は原則としてそれを論考読解の手がかりとはしない。例えば論考草稿や私的な手紙、さらには序文も原則としては考察の対象外とされる。これらはウィトゲンシュタインが論考として結実する思考を模索する過程を表しており、最終形態である論考を理解する上で必ずしも有用とは限らないと考える。ただしウィトゲンシュタインの後期哲学との関連を論じる立場から、哲学探究については言及を行う。また補足的に伝記的な記述に現れるウィトゲンシュタインの思想的背景と思われるものについてはごく簡単に触れる。論考の論理的部分にかんする読みと、伝記的記述から読み取れるウィトゲンシュタインの思想的傾向についてはこれまでかならずしもうまく接続されてきたようには思われないからである。多数ある二次文献についてはここでそれを論じることはほぼできない。これは著者の能力的な限界によるものであるが、本稿ではまず論考それ自体の読解に注力したいと思うからである。なお、論理哲学論考および哲学探究の日本語訳については丘沢静也訳[1,2]を用い、必要に応じて原文およびラムジー・オグデンによる英文対訳[3]およびピアーズ・マクギネスによる英訳[4]を参照した。 とはいえ、コーラ・ダイアモンドらの「決断的読み」[5]については触れる必要があるだろう。通例、論考においては語りは無意味なもの「ぶうぶうぶう」、科学的命題のように語り得るものについて語っている命題、およびなにか語り得るものを「示そう」としている「語り」に分類されると考えられる。しかし、決断的読みにおいては端的に無意味な「ぶうぶうぶう」という語りとなにかを示そうとしている語りの間に区別を設けない。したがって論考全体は、語り得ないものについてなにごとか示そうとしているわけであるから、「ぶうぶうぶう」という無意味な発話と同じと見做される。そこでコーラ・ダイアモンドは論考をテクストと解釈するのではなく、そのような無意味な(「ぶうぶうぶう」といった)発話をしようとしてしまうウィトゲンシュタインという人間を「想像」しようとする。 決断的読みの妥当性は込み入った議論でありここで検討し尽くすことはやはり著者の力量にあまるものである。ただし決断的読みには次のような問題点を指摘できるだろう。論考4.1212には「しめされうるものは、言われえない。」とある。この命題は「しめされうる」ものがなにかあることを前提にしていると読むのが自然に感じられる。たとえば

4.1211 こうして命題»fa«がしめしているのは、この命題の意味に対象aが登場する、ということである。2つの命題、»fa«と»ga«がしめしているのは、両方の命題で話題になっているのが同じ対象aだ、ということである。2つの命題が矛盾しているなら、2つの命題の構造がそのことをしめしている。一方の命題が他方の命題から生まれているなら、同様に命題がそのことをしめしている。などなどである。

などを読むと、「命題»fa«に対象aが登場する」は「ぶうぶうぶう」といった無意味な語りではなくなんらかの積極的な内容を伝えるものとして提示されているように思える。また、「命題»fa«に対象aが登場する」はテクニカルすぎて、無意味ではあるがそれを語ろうとするウィトゲンシュタインという人物について何か語っているもの、と考えることは難しいのではないか。 また、決断的読みは論考の6.54が「dass sie der, welcher mich versteht」、つまりかれが私を(例えば丘沢訳にあるような「私の文章」ではなく)理解するなら、という記述から議論を始めるのだが、特定の一文に解釈のすべてを賭けるのは行き過ぎであるように著者には思われる。むしろ著作の解釈はその全体を「見通す」ことによって行われるべきであるように筆者には思われる。 さて決断的読みの一つの動機は論考が論考みずからが「語り得ぬもの」として捨て去るべきとしていることに饒舌に語っているという矛盾を解決することであろう。本論ではこの問題に対して、論考は世界を見てとるあるアスペクトを提示しようとしているのだ、と考える。まったく同じ図(世界)がアスペクト転換によってまったく異なった「見え」を与えるのであるが、このアスペクトの転換はこの図に関するどのような事実の提示(語ること)、例えばこの線はこの線に接続している、などによっては代替することはできない。しかし例えば「ここに注目してごらん、耳に見えないかな?」といったアスペクト転換を起こすようなきっかけを言語的に与えることはできる。論考で目指されているのはこのようなアスペクト転換であり、そのようなアスペクト転換を体験した後では形而上学的な語りの中に無意味なものが含まれていることを指摘されることによりその無意味性を理解することができる、と論考は主張しているように思う。 本論では論考においての「示されるもの」(語り得ないもの)は世界に対するアスペクトである、という立場をとる。さらに、この「アスペクト」こそ論考において「形式」と呼ばれているものではないか、と考える。この立場により論考を整合的に読むことが可能になるではないか、を検討したい。

形式・形式列・内的関係・表情

ウィトゲンシュタインにとっての「形式」を考える上で手掛かりになるのが、「形式列」である。

4.1252 内的な関係によって並べられた列を、私は形式列と呼ぶ。数列は、外的な関係ではなく、内的な関係によって並べられている。つぎの命題の列も同様である »aRb«, »(∃x): aRx. xRb«, »(∃x, y): aRx. xRy. xRb«, 以下同様 (a とbの関係がこれらの関係のうちどれかであるとき、私はbをaの後継者と呼ぶ ここでウィトゲンシュタインは形式列の一例として後継者関係の定義を行う無限の命題列を考える。さて、このようなやり方で後継者関係を定義することは、通例行われない。例えばラッセルとホワイトヘッドは関係Rによる後継者関係R*を、次のように定義した。

後継者関係aR*bはつぎをみたす最小の関係である

このような定義の利点は、集合論の言語を仮定する限り、後継者関係を有限個の命題で行うことができる点である。しかしこのような定義をウィトゲンシュタインは拒否する。論考の言語では最小の関係という性質についての性質を述べることができない。これは論考において事物と関係が峻別されているからであるが、それは事物間に成り立つ関係(「外的」externな関係)と事態間に成り立つ関係(「内的」internな関係)を区別するからである。関係間に成り立つ関係も内的関係であって外的関係ではない。というのも、外的関係とは事物と組み合わさって事態を作る関数だからである。そうではなく、ウィトゲンシュタインは後継者関係を命題の「内的な関係によって並べられた(4.1252)」「列」formenreihenによって定義する。しかしウィトゲンシュタインの方法では無限個の命題が必要となり、一見すると後継者関係は把握不可能になってしまう。しかし、ウィトゲンシュタインによればこれらの命題は内的な関係、或いは「事実の表情(4.1221)」を見てとることによって把握できる。別の言いかたをすると、意味主体が無限列の要素間に成り立つパターン(表情)を把握することによりその無限列が把握されるのである。つまり、形式とは意味主体がある種のパターン認識(それ自体は言語化されえない)を事実間に見てとることにより成り立つものなのである。付言すれば、ここに後期哲学のアスペクトへの問題意識の萌芽を見てとることも可能だろう。 一般にアスペクト概念はウィトゲンシュタインの後期哲学に特有のものと考えられている。しかし、我々はアスペクト概念に類似した概念が「相貌」Zug (4.126), 「表情」Gesichtszüge (4.1221)という形で論考に現れていることを指摘したい。4.126においては「事実の内的な特性」が、4.1221においては「形式的な特性の表現」、「形式的な概念のメルクマールの記号」、「命題変項の特徴」が表情と呼ばれている(内的な特性・形式的な特性・形式的な概念のメルクマールの記号・命題変項の特徴、などの関係)。つまり、意味主体が事実や表現からある「相貌」や「表情」を読み取ることにより「内的な特性」や「形式的な概念」が成り立つのである。

写像理論:像・論理像・論理形式

写像理論に考察をうつす前に論考の形而上学について整理しておきたい。まず論考では世界は事実の集まりと言われる(1節)。事実は成立している事態である(2節)。事態は事柄と事物の結合である(2.01)。2.01節全体で説明されている通り、事物はあるやり方で事態の中に登場することがあらかじめ予定されている。2.01231ではこのことを対象の「内的性質」と呼んでいる。また2.0141節ではこのことを「対象の形式」とも読んでいる。 これら論考の形而上学は特に何の正当化もなく与えられており、独断的な主張に思われる。しかし、2.01231節での「内的性質」や2.0141節での「形式」を2節で議論したような「内的関係」や「形式」と捉えればどうだろうか。すると、対象の形式とは世界にあらかじめ与えられているものではなく、意味主体が世界の「表情」として見てとるものと考えることができる。 さて写像理論に考察を移したい。2.13節では「対象に対応しているものは、像では像のエレメントである。」とある。ここだけ読むと、対象と像のエレメントとの関係はあらかじめ措定されているように見えるかも知れない。しかしそうではない。2.17節で次のように言われている。

2.17 像は、現実をそのやり方で――正しく、またはまちがって――写像することができるためには、なにを現実と共有している必要があるのか。写像形式である。

つまり像は現実と写像形式を共有することにより像になる。とくに最も一般的な、世界を記述するあらゆる像が共通にもつ形式は論理形式であり、像が論理形式を現実と共有することに像は世界を写像することができる。ところで写像形式における形式は2節で見た形式のことと考えることはできないだろうか。例えば3.31節以降で議論される表現の問題を考えてみよう。3.311節によれば表現はその表現を含む命題全体のクラスとして、それらのクラスを特徴づけるメルクマークとして定義される。さらに3.312節によれば、そのクラスを表す命題の形式としても表される。その形式においてはその表現は固定(定項)であり、それ以外の部分は変項となっているような形式である。特に、あらゆる表現が変項である場合、その形式は論理形式と呼ばれる。逆に3.317節は論理形式のある変項をある表現に固定した形式、つまりその表現を特徴づける形式は、その変項が固定された命題を列挙することにより得られる。この列挙により形式を特徴づけることは2節で論じた形式列と考えることができる。つまり表現を与える形式は形式列によって、別の言い方をすると内的関係によって与えられる。ということは、ある表現を理解することは、その表現が現れている命題たちが共通にもつ相貌を意味主体が見てとることによることになるしたがって、あらゆる表現が変項となった命題の形式、つまり論理形式もそれらがもつ共通にもつ相貌を把握することによって得られるだろう。そしてその証左に言語について論じた4節では

4.014 レコード盤、楽想、楽譜、音波。これらはすべておたがいに、あの、言語と世界のあいだに成り立つ内的な写像関係になっている。

と言われており、写像形式は内的な写像関係、内的関係であることがわかる。像が世界の像となるのは、意味主体が両者に共通する相貌を見てとるからである。

語られるものと示されるもの さてウィトゲンシュタインは外的関係は語られるものである一方、内的関係は語りえないが示されるとの区別を繰り返し述べている。上記3 節の議論から論理形式や写像関係も内的関係であり語りえないが示されるものとなる。 なぜ内的関係が語りえない一方示されるものであるのか、「宣言的知識」と「手続的知識」の区別を援用し考えてみよう。この区別は認識論では例えばライルの導入したknowing what''とknowing how’‘[6]に対応するとされるが、ここでは認知心理学などでの一般的な理解にもとづきたい[7]。なお、”knowing what”と”knowing how”の区別が存在するかについてはさまざまな論争が存在する[8]。この論争について検討することも著者の力量を超えるものである。しかし、例えば哲学探究78節の

つぎのことについて「知っている」と「言う」とを比較してみよう。 モンブランの高さは何メートルか – 「ゲーム」と言う単語はどのように使われるか – クラリネットはどんな響きがするのか。

に端的に現れているように、ウィトゲンシュタインには上記引用文献でいわれる反主知主義的傾向があるように思われる。(付言すれば、そのロマン主義的傾向からウィトゲンシュタインは音楽に特別な意味を見出していたと思われる[8]。ウィトゲンシュタインは、音楽についてわからない、そして音楽を可能にしている知識を見落としてしまう傾向は、それが単に知的な誤りであるだけでなく、その精神の低劣さを表していると考えていたのかもしれない。)とはいえ、ウィトゲンシュタインが問題にしているのは「知っていること」と「言う」こととの違いであって、「宣言的知識」と「手続的知識」の区別そものもではない。むしろ、ウィトゲンシュタインは「意味を持って何かを言う」ことを手続き的知識が必要である、その意味で宣言的知識は手続き的知識の一部である、と主張している、というのがわれわれの立場である。 さて、宣言的知識とは言葉で言い表せる知識のことであり、例えば「論理哲学論考はウィトゲンシュタインによって書かれた」といった知識である。一方、手続的知識は例えば自転車の乗り方、音楽の演奏法などであり、言葉では言い表せないものである。重要な認知機能であるパターン認識も手続的知識と言えるだろう。手続的知識は次のような特徴がある。

内的関係の把握、別の言い方をすると相貌の把握が前節で述べたようにパターンの認識であるとするなら、それが手続的知識であるのは自然な考えであるように思われる。したがって、「語り得るもの/示されるもの」の区別は宣言的知識と手続的知識の区別に対応するのではないだろうか。 こう考えると、「しめされうるものは、語り得ない」とウィトゲンシュタインが述べていることが理解できるようになる。通常の説明のように「写像形式は世界内のできごとではないので語りえない」とするのであれば、「しめされうる」となぜ積極的に主張可能かがわからなくなってしまう。しかも像も事実である(2.141)、写像関係をも像に所属する(2.1513)と言われているのだから、写像形式が世界内のできごとではない、とはそもそも言えないことになる。写像形式は世界のありようのパターン(相貌)であるとすると、それを認識することは言語では記述できない手続的知識による。世界があるパターンをもって現れるということは自己や他者が世界を意味的に把握することを通じて、手続き的知識として教示されているのである。

論理哲学論考が目指すもの ところで論理哲学論考がその結末で「語ることができないことについては、沈黙するしかない」と述べているにも関わらず、「語ることができないこと」を語っているのは矛盾ではないか、とその出版直後から批判されてきた。上述のコーラ・ダイアモンドの決断的読みについてもこの問題の解決が一つの動機となっている。 我々はこの問題についてこのように考えたい。ウィトゲンシュタインが提示しようとするのは世界の一つの捉え方(アスペクト、相貌)である。そして世界をあるアスペクトのもとに見る能力はある命題(言明)を知ることではない。むしろ世界にあるパターンを見てとる認知的な能力ないし構えであり、手続的知識である。手続的知識は「語る」ことはできない。「語ろう」とすることでかえって実行が妨げられることもある。 とはいえ、手続的知識は教えることができないわけではない。ひとつの方法は実際にやってみせることである。また、言語的教示もある程度有効である。例えば「うさぎ—あひる」の図をうさぎとしてみるには、「ここが耳だと思ってごらん」と言語的な教示を与えることが有効かもしれない。この教示によってただちに「うさぎ—あひる」の図をうさぎとしてみることができるとはかぎらないが、この言葉がアスペクト転換を引き起こし、「うさぎ—あひる」の図をうさぎとして見ることができるようになるかもしれない。そしていったんこのようなアスペクト転換を経験した後では、「うさぎ—あひる」の図をうさぎとして記述できるようになる。 同様に論考は読者にあるアスペクト転換を引き起こすことを目指しているのではないだろうか。論考を読むことは必ずしもアスペクト転換を引き起こすとは限らない。それは論考が示そうとする世界のアスペクトはアスペクトである以上、言表可能な知識ではないからである。それでも、「私がここで書いていることを理解する」人のなかにはあるアスペクト転換を経験し、論考が示そうとする世界のありようを見てとるものがいるのかもしれない。そしてこのアスペクトのもとでは「問いはまさに残っていない」。そして読者は論考というハシゴを投げ捨てるのである。

謝辞 本研究は槇野紗央里氏との共同研究が出発点であり、その多くを槇野氏に依っている。ここに感謝したい。本研究の考察は槇野氏の考察と分かち難く結びついており、筆者の見解と槇野氏の考察を明確に分つことはできない。しかし、アスペクトの把握を手続的知識としてとらえることは筆者独自の見解である。また、論文の執筆は著者単独で行われた。よって本論文の問題点についてはすべて著者が責任を負うものである。

参考文献

  1. Ludwig Wittgenstein, 丘沢静也(訳). 論理哲学論考. 光文社, 2014.

  2. Ludwig Wittgenstein, 丘沢静也(訳). 哲学探究. 岩波書店, 2013.

  3. Ludwig Wittgenstein. Tractatus Logico-Philosophicus: German and English Edition (Trans. C.K. Ogden). Routledge, 1981.

  4. Ludwig Wittgenstein. Tractatus Logico-Philosophicus (Trans. Pears and Mcguinness). Routledge, 1961.

  5. Cora Diamond. Ethics, imagination and the method of Wittgenstein’s Tractatus. The New Wittgenstein, pp. 159–183. Routledge, 2002.

  6. Gilbert Ryle. The concept of mind. Routledge, 2009.

  7. Timon Ten Berge and Rene van Hezewijk. Procedural and declarative knowledge. Theory & Psychology, Vol.~9, No.~5, pp. 605–624, 1999.

  8. Carlotta Pavese. Knowledge How. In Edward~N. Zalta and Uri Nodelman, editors, The Stanford Encyclopedia of Philosophy . Metaphysics Research Lab, Stanford University, Fall 2022 edition, 2022.

  9. Ray Monk. Ludwig Wittgenstein: The Duty of Genius. New York, NY, USA: Penguin Books, 1990.